この領域を燃える欲望と呼ぶ

人生は、父親の加護のもと、疑うことを知らないかわいい子どもとしてスタートするというのはきっとほんとうだ。そのあと、無関心な人々のなかに放りこまれる日々が来て、自分がみじめでちっぽけで貧弱で盲目で素っ裸であるのを知ることになるのだ。そして、悲惨に嘆く幽霊のような顔でぶるぶる震えながら悪夢の人生を歩む。僕はよれよれになって駅から転がりでた。からだの自由がきかなかった。僕の目に映る朝は真っ白で、墓の白さだった。

ジャック・ケルアックオン・ザ・ロード』(青山南 訳/河出書房新書)第一部より

この構成体は、魂の空間の中で、自己中心的な役割を演じている。自分の周りにいる多くのものを押しのけ、わずかなものだけを好ましいものとして自分の方へ引き寄せる。それ故、この構成体は、変化し難い形態を保って、魂の空間を移動している。それらの共感の力は、貪欲な姿を示している。しかもこの貪欲は、満足することを知らぬかのようである。というのは、支配的な反感が、近寄ってくる多くのものを押しのけてしまい、魂は充たされようがないからである。この種類の魂的構成体を、物質界の何かと比較しようとするなら、個体がこれに対応しているといえるだろう。魂的素材性のこの領域を燃える欲望と呼ぶ。(中略)反感が問題になる間は、まだその魂的構成体は自分だけのために、他のものによって自分を強め豊かにすることのためにのみ、他のものと関わろうとしている。反感が沈黙するとき、伝達し、啓示してくれる存在としての他のものを迎え入れる。物質空間における光に似た役割を、この高次の形式の魂の素材は魂的空間の中で演じる。この魂の素材は、或る魂的構成体をして、他の存在、他の本質を、これらの存在、本質そのもののために、いわば吸収するようにさせる。別の言い方をすれば、他の存在の光で自分を照らすようにさせる。

 魂は、これら高次の諸領域を知ることによって、はじめて真の魂の在り方に目覚める。魂は、暗闇での重苦しいいとなみから解放され、外に向かって開かれ、輝き、みずから魂的空間の中へ光を投げかける。定次の諸領域の魂的素材だけしか存在しない場合の、反感によって他から自分を閉ざそうとする、不活発で陰気な内的いとなみは、今や内から起って、外へ流れ込む魂の力と活動性とに変わる。(中略)このような高次領域の素材は、魂の光、魂の活動力、そして狭義での魂本来の生命である。これらは高次領域から出て個々の魂に付与される。(中略)輝き、活気づけながら、この領域の魂的素材は、魂の空間に吹き渡り、自分だけでは自己存在の中に埋没しかねない魂的構成体を覚醒させるのである。

                ルドルフ・シュタイナー『神智学』より

告知

電車の広告などにもでてるらしいです。
アウェイです。
お時間あったら是非遊びに来てください。
どうぞよろしくお願いいたします。

東京インターナショナルフラワー&ガーデンショー
http://tokyoflowershow.jp/
立川・国営昭和記念公園みどりの文化ゾーン
立川駅から最短、あけぼの口から入ってすぐ)
入場料前売1800円/当日2200円(大人)

朗読詩人団コトバナ出演

4月21日(水) 14:10〜50
しえろ文威(フミタケ)、北村しいこ、守山ダダマ

4月23日(金) 12:00〜40,14:10〜50
志賀圭一、北村しいこ、守山ダダマ

4月25日(日) 12:00〜40
服部剛、Takako、笹田美紀

※ジャン・ジオノ著『木を植えた男』、ポール・シュライマン著『種をまく人』にちなんだ詩の朗読や弾き語りを披露します。


『種をまく人』
13人のシードフォークスたちの物語。 彼らの不思議な繋がり、種を蒔く人々の個々の人生の切れ端が紡ぎ出す世界は、とても興味深いものです。

『木を植えた男』
荒れた土地に足を踏み入れた一人の旅人。
そして出会った羊飼いの男。平和では無い時代、平穏だけではない人生。
木を植え続け、生きる事、希望を見出だす事…そして森ができ、誰もいなかった荒野に人々が戻ってくる。
こちらは、映画化され、1987年にアカデミー賞短編映画賞受賞作品。
たった一人の男が植えた木を巡って色々なものが見えてきます。

この二つの作品は、一見すると相反するような気がします。
しかし、この二つの作品が伝えようとするもの、それは‘種をまく’‘木を植える’という植物を育てるという意味以外にも、どこかで繋がっています。

ガーデンショーでは、この二つの‘おはなし’をテーマに朗読や弾き語りを表現します。
このテーマをそれぞれの出演者がどのように料理していくのか?それを楽しみに、していただけたら幸いです。
<守山ダダマさん&シーコさん、稀月真皓さんのミクシー日記より引用>